気分をマップ化するMusicoveryのアプローチ

11月 30, 2006 on 10:03 am | In ネットコンテンツ評 | Comments Off

自分の気分に合った音楽と出会う場、というのが必ずあるはずだ。

私の少年時代は、AMの深夜放送だった。
高校から大学にかけては、FMブーム、エアチェックブームというのが起こり、FM情報誌と連動して盛り上がったものだ。

現在は、これがインターネットに場を移そうとしている。
iTunes Storeもそうだし、Webラジオや音楽ポータルサイトなども多数登場してきている。

Musicoveryというサイトがある。これも面白いWebラジオ系のサイトだ。

左がそのインターフェイスだが、ジャンルと年代(オールエイジも選べる)を選択、さらに各ジャンルの中で「暗め< ->明るめ」「おとなしめ< ->激しめ」を指定する。選択されたジャンルの楽曲が画面上に上のようなマップとなって表示される。マップ上の楽曲をクリックして聴くこともできる。

曲の雰囲気といったような、不明確な「気分」的なものを表示し、選択させるための方法としては考えられたものだと思う。

上はワンジャンルで指定した場合の画面だが、気分を指定を優先することもでき、その場合はもっとカラフルな(というのはジャンルごとに色が違うので)ジャンル横断型の画面になる。

しかしそれ以外の操作は少なく、ボーっと聞くためには、音量の調節やミューティングといった仕組みも欲しいとは思う。

でも、面白い試みであるというのはたしかだ。BGMとして聞くというよりは、積極的に楽曲を探す人向けだろう。

これからは「気分」も含めた検索というのが非常に重要になるはずだ。「これを探す」というより「これに雰囲気が近いものを探す」「これが好きな人がきっと好きなはずのものを探す」という考え方だ。

こうした気分マップ化というのは、さまざまな分野に応用できるような気がする。

動画投稿サイトと携帯電話の関係

11月 29, 2006 on 11:30 am | In ネットと映像の関係論 | Comments Off

YouTubeが米携帯キャリア大手と提携したという。

MYCOMジャーナルが伝えるところ
によると、

米YouTubeは11月28日(現地時間)、モバイル向けビデオ配信で米Verizon Wirelessと戦略的提携で合意したことを発表した。期間限定ながら、YouTubeのモバイルサービスの独占的な提供になるという。

12 月初旬からVerizon Wirelessのコンシューマー向け携帯ブロードバンドサービス「V CAST」を通じて、携帯電話からYouTubeが用意したビデオにアクセスできるようになる。また「LG Chocolate(VX8500)」「Motorola MOTOKRZR K1m」など、V CAST対応携帯電話で撮影したビデオを直接YouTubeにアップロードできる。

もちろん、携帯でビデオを見られることの意味も小さくはないが、この提携で一番重要なのは、携帯から直接ビデオをアップロードできるパスが備わったことだと思う。

つまり、これでYouTubeはPCというくびきを切り離すことができる。
慣れた人には何の問題もなくても、PCで動画を作ることはそれなりにノウハウが必要だ。ビデオカメラやソフトも必要になる。

ほとんどの携帯には動画も撮影できるカメラが備わっており、ネットワークに直接つながる。動画コミュニケーションが携帯ひとつで可能になるのだ。

考えられる問題は、今までより「撮りっぱなし、身内以外には意味なし」動画が氾濫するかもしれないということだが。

こうなると、もっと「動画に特化した携帯」というものが企画されてしかるべきだろう。たとえば、簡単な編集機能を内蔵した携帯だ。

と思ったところに、こんな映像が入ってきた。Appleが出すといわれている携帯”iTalk”のイメージCMだという。これなんか、編集機能を内蔵した携帯であってもおかしくない形状なんだけどね。
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The Lion Is Sleeps Tonight

11月 28, 2006 on 4:30 pm | In ネットコンテンツ評 | Comments Off

YouTubeで一番くらいに好きな動画。

私は、ネット用のハンドルが「かば」ないし「kaba」というだけあって、カバが好きである。

名曲を歌うカバ君。表情に注目していただきたい。

テレビとラジオの区切りがなくなる?

11月 27, 2006 on 12:45 pm | In ネットと映像の関係論 | Comments Off

文化放送といえばラジオ局だが、そのラジオ局が映像の放送をはじめるという。

ITPlusが伝えるところ
によると、

 ラジオ大手の文化放送はインターネットでの動画配信事業に参入する。ラジオ番組の関連映像をネット向け番組として加工し無料配信、テレビで流れているコマーシャル映像を挿入し利益を得る計画。ラジオ局はこれまで音声情報をネット配信しているが、番組宣伝の色彩が濃く収益には結びついていなかった。

 新事業の名称は「UNIQue the TV」で、ホームページ内に専用コーナーを設け、利用者が好きなときに動画を楽しめるようにする。広告はスポンサーがテレビ用に制作したCM映像をそのまま流用。コンテンツの冒頭や途中、最後などテレビ放送の編成に近い形で挿入する。コマーシャルを活用し、収益を狙う。

要するに、ラジオだ、テレビだ、といった放送の区切りが、だんだん意味をなさなくなってくるということなんだろう。それらは電波の許認可によって区切られているのであり、電波を使わなければ何でもあり、ということになってしまう。

ラジオ局にはラジオなりのコンテンツ制作のノウハウがあり、それに映像を付加することは決して難しくはない。

さらに読み解けば、要するにネットを使った動画配信においては、コンテンツ制作のノウハウだけがすべてだ、ということなのだろう。ネット動画は、テレビによる画一的な放送に飽きた人々を引きつける。そのためには、従来のテレビにないコンテンツがあればよい。

テレビはここ30年ほど、キングオブメディアとして君臨してきたが、それも電波という簡単には使えない媒体を占有してきたからだ。テレビ自身が変わらなければいけない時期も早々に来ると思われる。

「スポーン」をみた

11月 24, 2006 on 2:12 pm | In 映画・DVD評(洋画) | Comments Off

てっきり未見と思っていたら、以前に見た映画だった。
私はこういうことをよくやる。本も二度三度買ってしまうことがある。

なんとなく「デビルマン」のアメコミ版、という感じがする。本来悪魔の側にある主人公が叛旗を翻して闘う、という点だけだが。

主人公アル・シモンズはアメリカの諜報機関A6に所属する工作員だったが、悪魔と手を組んだその長官の罠に落ちて焼け死に、悪魔の軍団を率いる司令官となる契約を結んでスポーンとなり、焼けただれた身体を覆うスーツを得る。しかし、妻への愛が故に悪魔の陣営を裏切り、長官への復讐をはたす。

Wikipediaによると「黒いコスチューム(ネクロプラズミック・アーマー)は、意思を有する魔界の寄生生物で、宿主であるスポーンを守るために巨大な真紅のマント、チェーン、スパイク、両腕の鉤爪などを操って自ら攻撃や防御を行う」とある。CGを使ってこのコスチュームの動きは作られているのだが、今ひとつ戦闘シーンが平凡で、その魅力が生きていないなあ。

反対に、焼けただれたシモンズの容貌はマスク。作りがちゃちで、出ずっぱりなせいか、怪奇な感じがしない。

1997年の制作だというが、続編が作られていないということは、あまり人気が出なかったんだろう。

Webで検索、って

11月 22, 2006 on 11:19 am | In 平成徒然草 | Comments Off

昨日自宅の近くを歩いていたら…。

どうも美容院らしい。
窓には、誇らしげに店名と重ねて「Yahoo! JAPAN」とある。
あまつさえ、写真のとおり「検索/詳しくはWebで」と貼り出してある。

たしかに、今TVCMでは、以前よく行われていたURLの訴求が影をひそめて、キーワード+検索という表示が横行している。しかし、店頭の表示に「検索」と書くかぁ? せっかく店先まで来ている人に、帰って検索しろと言わんばかりで、かえって失礼ではないかと思うが。

検索してみると、たしかに一位に表示される。もっとも、所在地+店名での検索だから健闘とたたえるほどでもない。

若い層を意識するなら、でっかいQRコードを表示して、携帯で表示させるという手も考えられる。いや、それよりも窓のスペースは余りまくっているのだから、Webの内容を印刷して貼り出したほうが早いはずだ。

「M:I-3」を見た

11月 22, 2006 on 9:01 am | In 映画・DVD評(洋画) | Comments Off

「スパイ大作戦」リメイクの三作目。

トム・クルーズってもう四十代なんだが、いつまでも青年の顔を維持してるなあ。こういう役者って、ある日突然老け役で登場してくると思うが、それからは苦労するだろう。それまでのイメージがあるから。

それとも、青年役が無理になったらプロデューサー業に徹するつもりかなあ。

現場を退いて訓練教官となり結婚もしたイーサン・ハントは、自分が教えた訓練生が死の商人デヴィアンに捕らえられたため現場復帰し、救出に向かった。救出は成功したが、頭の中に植え付けられた爆弾のため、訓練生は死ぬ。その訓練生が死の前に残したメッセージは、IMFの局長がデヴィアンと結託していることを伝えるものだった。一計を案じてデヴィアンを捕獲したイーサンだが、すぐに奪還され今度は妻を人質に「ラビットフット」なるものを奪うことを強要される。

相変わらずスピーディなアクションの連続で、最後まで猛スピードで突っ走る。飽きさせないのだが、よく考えてみるとヘンな状況ばっかり。よく言っても「ルパン三世」レベルの話ばかりだ。

IMFの連中って、単独行動してるようでも無線でつながっていて、指示が来ないと一歩も動けないのだよなあ。妨害電波一発でニッチもサッチも行かなくなるのに、誰も仕掛けないのはなぜ?

YouTube時代の「編集」とは

11月 21, 2006 on 9:12 am | In 映像文化を語ってみる | 1 Comment

映像の編集というものについて考えてみたい。
ビデオ編集ソフトを開発・販売しているメーカーの人も含めて、編集というものを高度なものと考えすぎだと思う。

編集作業とは何か、それは二つの部分から成り立っている。
最初の部分が狭義のいわゆる「編集」である。
二つめの部分は、いわば「効果」と呼ぶことができる。
「編集」が主で、「効果」は従である。

狭義の「編集」はふたつの作業から成り立っている。

主たる作業は「不要な部分を省くこと」である。
撮影された映像には必ず不要な部分が付随している。
それを削るわけだ。

従である作業は「表現の意図に従って並べ替えること」である。
出来事の経過に沿って撮影されたものでも、必ずしもその順序で再生するのが表現上よいとは限らない。ひとつの例だが、一番おいしい部分を最初に見せることによって視聴者の心をつかむ、ということが考えられる。

以上のふたつが、狭義の「編集」の中身である。
これに対してビデオ編集ソフトの広告などを見ると、トランジション(場面から場面への移り変わりの効果)、テロップ(字幕)、PinP(画面の中に小画面を配置する)といった「効果」の部分がやたらとクローズアップされているような気がする。

実は編集作業の中で、おおかたの時間は狭義の「編集」に費やされていることが多い。制作する作品の分野によっても違うが、CMを除くほとんどの映像作品がそうだ。

さて、時代はすでにYouTubeに代表されるネット動画が隆盛である。
この時代に必要とされる「編集」とは何か?
極端な話、編集の根本に立ち返ってもいいと思う。

小さな画面の中で効果に凝っても仕方がないことが多い。
それよりは、ストレートに画面で語りかけたほうが訴求力が強いだろう。
YouTubeなどはアップロード時間が10分に制限されているし、ほとんどのユーザーが2~3分しか画面を見ないから、極端に絞り込んだ短い作品が有利だ。
効果といえば、ディゾルブ(オーバーラップ)とテロップ一本くらいで十分なのではないだろうか。それよりは、「編集」に力を入れるべきだと思う。

そこでビデオ編集ソフトのメーカーさんに提案なのだが、軽くて基本的な機能だけに絞ったネット動画用の編集ソフトを安く提供してもらえませんかねえ。

私の手元にはUlead VideoStudio10と、Cyberlink Power Director5という、いずれもエントリー用の編集ソフトがあるが、どちらもエントリー用とは思えないほど「効果」が豊富だ。そういうのも悪いとはいえないが、基本的な部分に絞ったほうが使いやすいのではないかと思う。

たとえば付随的な「効果」はプラグインパックにして、必要になるつどダウンロード販売で購入可能とかしたら、どんなものだろう?

「かもめ食堂」をみた

11月 20, 2006 on 12:00 am | In 映画・DVD評(邦画) | Comments Off

フィンランドの首都ヘルシンキにその食堂はある。
店主のサチエさんの言葉によると「レストランではなくて、食堂です」ということだ。メインメニューは、おにぎり。

ヘルシンキに食堂を出したものの、さっぱり客がこないサチエ(小林聡美)。はじめての客は、日本かぶれの若者だった。サチエは、初の来店を記念して、彼は一生コーヒーを無料、ということにしてしまう。彼がサチエに尋ねたのは「ガッチャマンの歌、教えてください」しかし、サチエは「誰だ、誰だ、誰だ」の後が出てこない。

それが気になって本屋に出かけたサチエは、旅行客のミドリ(片桐はいり)を見かけて「ガッチャマンの歌を知ってますか?」と声をかける。ミドリは完璧にガッチャマンの歌を覚えていた。それが縁で、ミドリはサチエの家に泊まり、かもめ食堂を手伝うことになる…。

ほんわかした雰囲気のまま、さしたる事件もなく、かもめ食堂をめぐる話は進んでいく。後には、もたいまさこ演じるマサコを加え、三人の日本人女性はだんだんとヘルシンキの町に溶けこんでいき、客も来るようになる。

注目すべきは、主人公サチエの人物造形だろう。物静かで、弱気になることもなく、ただ「真面目にやっていればお客は来ますよ」と、自らの信条とスタイルを崩さない彼女は、ミドリをはじめふれ合う多くの人々を安心させる人柄だ。

102分という尺も適切だ。商業的には知らないが、やはり1時間半前後という尺は小品映画にピッタリしていると思う。

「佐賀のがばいばあちゃん」をみた

11月 17, 2006 on 7:44 am | In 映画・DVD評(邦画) | Comments Off

ここまで中途半端だと、それもまた芸術的である。

漫才師の島田洋七の幼少期を語る自伝の映画化。

広島から母の田舎である佐賀に預けられたアキヒロは、貧乏ながら明るく豪快に生きる祖母のもとで暮らすことになる。もっぱらその祖母のエピソードが中心。

洋七がトークで語る「がばい(すごい)ばあちゃん」談は面白い。だがそれも、彼の話術があっての話かもしれない。映画となってみると、貧乏にまつわる笑いのエピソード、人情話的エピソード、昭和30年代の片田舎の情緒、いずれもが単発で散漫に続く。

ばあちゃん語録も、吉行和子が口にすると、洋七が語るようには笑えない。町を歩くとき、鉄くずを集めて売るために磁石を引いて歩いている、というビジュアルはいいんだが。

オープニングから登場する三宅裕司は、大人になったアキヒロなのだろう。時々登場して子ども時代の自分を見つめている。島田洋七役というわけでもなく、会社員風のいでたちである。

エンドシーン、佐賀を去っていくアキヒロとすれちがうように三宅が登場したから、これはてっきり大人になったアキヒロが佐賀を訪ねると、まったく同じ風景の中に、歳をとった吉行和子のばあちゃんが、元気にまだ生きている、という展開かと思ったら、いきなりストップモーションしてエンドロールが流れてきた。苦笑モノだった。

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