映像・音声を話題ごとに分割する技術?
5月 31, 2006 on 8:24 am | In 平成徒然草 | Comments Off話題の変わり目をとらえる、というのは人間にも難しいことだと思うのだが、それがIT技術で可能になったのだという。
Stream NOWが伝えるところによると、
日本電気株式会社(以下NEC、本社:東京都港区、代表:矢野薫)は、映像/音声コンテンツに含まれる音声から話題(トピック)の変化を検出し、映像/音声コンテンツを話題毎に分割する「トピック分割技術」を開発/発表した。
トピック分割技術とは、自然な話し言葉を業界最高レベルの精度でテキストに変換する音声認識技術と、テキストを意味のあるまとまりに切り分けるテキスト分割技術により実現したもの。話題が違えば語やフレーズの出現傾向も違うという「話題間の差異」に着目してトピックを分類することにより、政治・芸能・スポーツなど話題の具体的内容に影響されることなく分割可能なほか、一連の話題の移り変わりを数理的なモデルで表現。話題の変化点をコンテンツ全体から総合的に判断することで話題が変わる頻度に関わらず安定した高い性能を保つのが特徴。
どれくらいの精度で話題の変わり目が検出できるのかなあ。
複数の人間が、それぞれ勝手なことをしゃべっている時はどう判断するんだろう?
「蝉しぐれ」をみた
5月 30, 2006 on 12:00 am | In 映画・DVD評(邦画) | Comments Off劇場公開時にも感じたことだが、やはり市川染五郎はミスキャストだ。
小説「蝉しぐれ」は、主人公牧文四郎の少年時代から青年時代までを描く、そしてエンドシーンには壮年になった文四郎が登場する。いわば、時の流れはこのストーリーのもうひとつの主人公ともいえる。
映画というものにはどうしようもない制限がある。それは、人間の役者が演じているということだ。役者は、ストーリーや監督がイメージするとおりに、年をとったりはできない。
市川染五郎は撮影当時30歳をまわっている。このストーリーのクライマックスともいえる欅御殿のくだりでは、牧文四郎は二十歳すぎ。まあ、当時と今とでは社会状況も寿命も違うことを考えても、当てる役者は24~5歳といったところが妥当ではないか。私が監督ならそうする。
それに、下級武士である文四郎に、貴公子然とした染五郎の風貌はふさわしいとはいえない。
この映画の前半は、新人の石田卓也が文四郎を演じている。はっきり言って、前半の彼ら若者たちの演技というのは学芸会レベルに毛がはえたようなものだが、それでも染五郎の演じている文四郎よりは「蝉しぐれ」にふさわしい。
御前試合のくだりで、突然石田から染五郎に変わった、どうしようもない落差も、この映画を台無しにしている要因ではある。
黒土監督は時の流れということの必要性をを十分に意識している。季節の移り変わりをしつこいくらいに風景描写でインサートしているあたりで、それがよくわかる。にもかかわらず、なんで市川染五郎なんだろう。
有名な主演者が必要なら、ジャニーズ系でもなんでもいい、もっと若者の主演男優がよかったのに、と思う。
ブログも正規のニュースメディア
5月 29, 2006 on 4:27 pm | In 平成徒然草 | Comments Off米Apple Computerが未製品発表の情報リークに関してオンラインジャーナリストを訴えている訴訟で、カリフォルニア州の控訴裁が5月26日、「情報源秘匿に関してオンラインジャーナリストはオフラインの記者と同じ権利を持つ」との判断を下した。電子フロンティア財団(EFF)が発表した。
(…)
控訴裁の判決では「『正規』のニュースと『正規でない』ニュースを線引きできるような基準には思い至らない。裁判所がそのような線引きをしようとすれば、米修正憲法第1条(言論の自由)の基本理念をないがしろにすることになる」と指摘。カリフォルニア州の記者保護法、および憲法上の情報源秘匿権に基づきオグレイディー氏は保護されると判断した。
ネット上のメディアはいわゆるマスコミと同じ権利を持つ、という判断。
海の向こうでの判断だが、これはネットメディアにとって非常に重要な性格付けだ。
たとえば、大新聞、テレビネットワークと一個人が運営するブログは、ニュースメディアとして何ら権利上変わるものではない、これを違うものと規定しようとすれば、言論の自由の理念をないがしろにすることになる、というわけだ。
メディアの性質が変質しつつある。
これまで、印刷メディアだったり放送メディアだったりが主流だった時代は、大新聞上に掲載されていること、あるいはメジャーネットワークで放映されていることが言論の確かさの基準だった。
こうした判断基準が実は、単なる入れものについての評価である、ということなのだ。
大新聞の記事だって、まともでない記事はある。全国放送のテレビにだって間違いは多々ある。(TBSが白いんげん豆ダイエットについて間違った情報を放映したのは記憶に新しい)
これからのメディアは、入れものではなく、中身で判断していくべきなのだ、ということが示唆されているような気がする。
迷惑メールライター
5月 26, 2006 on 8:45 am | In 平成徒然草 | Comments Off日に数十通、場合によっては200通くらいのスパム、いわゆる迷惑メールが来る。
英語や韓国語のスパムが多かったのだが、最近は日本語のものも多い。
日本語のものは、そのほとんどが出会い系やエロサイトへの誘導だ。
昨日きたのなどは、ほとんど職人技としか思えない文章である。
スパムに著作権などないと思うので、勝手に引用する。
件名:ちょっとショックな事がが起きました。
いつもメールをしている漫画喫茶がつぶれてしまいました…。
昨日までは普通に開いていたのに…。
どうやら店長さんが夜逃げしたみたいです。
笑えないですよね。
今は車で30分かかる漫画喫茶からメールしてます。
でも、今後も通い続けるのは正直大変なんです。あまりメールもしてませんし、短かい時間でしたけど、私にとっては凄く楽しい時間でした。
こんなに沢山自分の事を話すのも久々でしたし…。
それが今日で終わってしまうと思うと悲しい気分です。それで、どうにか出来ないかと色々と探していたら写真を掲載したり、メールを携帯に転送したり出来るSNSポータルと言うのがあったのでそこで今後は連絡を取り合いたいんです。
無料で使えましたし。恥かしいんですけど、そこにプロフと写真を載せました。
…というわけで、結局出会い系SNSへの誘導だったらしい。
一行コピーでURLが書いてあるだけ、というスパムも多いのだが、これだけ丁寧に書かれるとついつい読んでしまう。
でも、よく読んでいるとなんか話がみえないんだな。
これは女性からという想定になっているようだが、漫画喫茶がつぶれたこととSNSを見つけたことの間に脈絡がない。つまり、PCは持っていないが携帯は持っているという想定なのだろうか。携帯でメールができるのなら、わざわざ車で30分も走って漫画喫茶に行く必要はないような気がするんだが。
書いた奴が頭悪いな。
これは、当然誰か専門のライターが書いているんだよなあ。
けっこういい金になるのかなあ。
コメンテーター
5月 25, 2006 on 2:21 pm | In テレビ番組評 | Comments Off最近、ワイドショー的な番組でも、文化人、知識人といわれるような人がパネリストとしてレギュラー的に座っていることが多い。肩書き的には、作家や評論家、大学教授などさまざまだが、総称してコメンテーターと呼ばれるようだ。
やしきたかじんの番組によると、こういう人たちがテレビに入ってくるようになったのは小泉首相が原因だという。
つまり、小泉劇場といわれるようなマスコミ迎合型政治を繰り広げたために、テレビ番組がニュースばかりでなく、ワイドショーなども政治を取り上げるようになった。そうなると、今までのような芸能人レギュラーなどだけではなかなか話題を盛り上げることができなくなり、文化人がレギュラー陣に加わるようになってきたのだということだった。
問題は、これらコメンテーターという人たちは、別に話題にのぼる分野のスペシャリストだとはかぎらないということだ。もちろん、学者などもいるわけだが、やはり専門分野がある。テレビ番組は幅広い話題を取り上げるわけだから、専門以外の分野では押し黙っていられては困る。
コメンテーター、という名前のとおり、コメントをすればいいわけで、必ずしも本物の知識にもとづいた時事解説をするとは限らない。
その結果、専門知識にもとづいた談話と、たんなる個人的な感想とが、同じ人物の口から出たりする。またいわゆる文化人は、もっともらしい顔をして語るのがうまいので、コメントの質をおしはかるのが難しくなってしまった。
面倒くさいことになったものだね。
グーグルが動画アドワーズ広告
5月 24, 2006 on 2:24 pm | In ネットと映像の関係論 | 1 Commentネット上の動画広告がけっこう目立つようになってきた。
CNET JAPANが伝えるところによると、
グーグルは5月24日、同社の広告プログラム「アドワーズ広告」において、動画広告を開始すると発表した。他社の動画広告と異なり、ユーザーが動画をクリックすることで映像が再生される点が特徴だ。
グーグルは今回の動画広告を「Click-to-Play動画広告」と呼ぶ。今回の仕組みを取り入れた狙いについては「広告主側に前述のメリットがあると同時に、情報を探しているときに邪魔にならないよう、ユーザー側にも快適な環境を保ちたいと考えた」と説明する。
前述のメリットとは何かこの文面ではわからないぞ。
たしかにページを開いたとたんに動画広告がはじまるのは結構わずらわしい。音声がないなら、さほどでもないのだが、音声つき動画が突然はじまった時はドキっとすることもある。
同様の記事がITmediaニュースにもあり、そちらによると米国、カナダ、および日本での開始のようだ。日米で同時開始というのが、この手のサービスでは珍しいか。
プレスリリースを読んでみても、これ以上詳しいことはあまり書いていない。広告主がテレビCMと同じものなどを持ち込んで流すのか、それともグーグルが広告制作まで受けるのか、といったところもよくわからない。
というより、ネット上の動画広告というものをきちんと解説しているサイトを見たことがない。どういう動画を流すのがよいのか、それはテレビCMとはどう違うのか、社会行動論や心理学にもとづいてきちんと提案できる広告会社はどれくらいあるのだろう。
CGらしさ
5月 23, 2006 on 7:01 am | In 映像文化を語ってみる | Comments Off映像系エンジニア/アナリストの小寺信良氏がITmedia+Dのブログでこんなことを書いている。
ふと寂寥感がこみ上げてくることがある。というのは、昔のマリオネット時代は、メカの動きといい全部模型を使って実写でやっていたので、なにかこう、人の手の苦労の跡というのが画面からヒシヒシと伝わってきて、言いようもない必至感があったのだ。
だが巻き上がる砂埃や爆発の爆炎などまでCG化されると、どこをどう苦労したのかが、うまく伝わってこない。
これ、見ている立場からするとそのとおりだが、作る立場からすると難しいところだと思う。
今、CGはどちらかというとCGらしさを消す方向に向かっていると言える。
映画はもちろん、CMなどでも本当にさりげなくCGが使われていて、視聴者はそれがCGであることを意識せずに見ている。
流れがそうなので、フルCGアニメでもどちらかというと実写を模倣する方向に向かっていると思われるのだ。(さすがに人物など出てくると違和感は拭えないが)
私が業界に入った頃は、CGは「CGらしさ」そのものがウリだった。まだレンダリングパワーが足りなかったので、ワイヤフレーム全盛だった。しかも、CGにかかるコストが高かった。
予算がなかったので、アニメーターにワイヤフレーム風で描いてもらうこともしばしばだった。(今では信じられないだろうが、その方が安かったのだ)アニメーターは「こんな仕事が続くと、まともな絵が描けなくなる」と愚痴をこぼしながら描いてくれていた。
まあ、流れというものは時々逆転するものだから、いずれまた「CGならでは」の表現がもてはやされる時代というのが来ると思う。
「大停電の夜に」をみた
5月 22, 2006 on 8:34 am | In 映画・DVD評(邦画) | Comments Offそういやぁ、停電ってなくなった。
いや、土地によってはまだよくあるのかもしれないが。
子供の頃はよく停電があって、家に必ずローソクの買い置きというのがあった。停電で真っ暗になり、ローソクがともると、なんとなく心細くもあり、またドキドキもしたものだ…。
群像ムービーとでもいうのだろうか、明確な一組の主人公を置くのではなく、数多くの人々が相関を持ちながら、東京大停電の夜を舞台にさまざまに行動するさまを描いている。そのすべてに共通するテーマは男と女の出会いと別れ、特に「別れ」である。
そのため、ストーリーをここには書き記せないが、少年少女から熟年夫婦に至るまで12人の男女が登場し、一夜の出来事の中に彼らの過去も投影されて、切ないストーリーになっている。
灯りを失った夜にキャンドルの灯りが浮かび上がるビジュアルは幻想的で美しい。
ただまあ、こういう形の映画に特有の散漫な感じは、決してまぬがれていないのが残念ではある。バランスの問題なんだけどなあ。
「ブラザーズ・グリム」をみた
5月 19, 2006 on 9:47 pm | In 映画・DVD評(洋画) | Comments Offグリム童話といえば、イソップ、アンデルセンとともに、なじみ深い童話集であり、後にディズニー映画などの原作ともなった、有名な話がたくさん含まれている。
ナポレオンが占領した頃のドイツを舞台に、グリム兄弟は魔物退治で有名になっていたが、その実態は自分たちが仕掛けたトリックで魔物を出現させ、退治したように見せるだけのイカサマ師だった。
グリム兄弟はフランス軍にとらえられ、同じような魔物の噂があり、何人もの少女が行方不明になっている村の調査を命じられる。その村を訪れ、魔物の巣となっている森に入り込んだグリム兄弟は、それが何のトリックでもない、本物の魔法、本物の怪奇であることを知った…。
「赤ずきん」「ヘンデルとグレーテル」など童話の一端を少し配してはいるものの、映画はあまりグリム童話と関係がない。本当に魔法に対してイカサマ・トリックの応用で立ち向かうのであればそれも面白かったかも知れないが、そうでもない。
誰でも知っている童話という魅力的な素材があるのだから、もっとうまく料理すれば面白い映画になったと思うんだがなあ。
「ザスーラ」をみた
5月 18, 2006 on 11:07 pm | In 映画・DVD評(洋画) | Comments Offそういえば身の回りのゲームというゲームが電子ものになってしまった。
ゲームを楽しむことが想像力をはたらかせることであった時代は、はるか過去になってしまったのだろうか。
最近のゲームは、あらかじめ用意された映像が次々登場するという意味では、映画と同じだ。
ケンカばかりしている10歳と6歳の兄弟。兄が怒って弟を地下室に閉じこめると、弟は地下室の中で「ザスーラ」という宇宙冒険もののゲームを見つける。自動化されたスゴロクみたいなゲームだが、弟がこれをはじめると、家が宇宙に浮かび、次々と緊急事態を告げるカードが出てきた…。
要するに「ゲームの中の事象が現実になる」という奴だ。
流星群が家を穴だらけにするわ、狂ったロボットが襲ってくるわ、宇宙人の戦艦が横付けして砲撃をはじめるわ、宇宙飛行士が漂着するわ…。
残念なのは、ゲームそのものはふたつの宇宙船を模したコマが進んだり戻ったりするだけなこと。
たとえばこれが「モノポリー」や「人生ゲーム」的なゲームだったらどうだろう。兄弟がファンド村上やホリエモンみたいな人生を歩みはじめるとか…。そっちのほうが面白そうだが。
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