映像文化を語ってみる

映像文化復権元年(6)

2010/12/12

最近テレビ番組で、小さなカメラを持って撮影しているスタッフが写ることが多い。写っているということは、それを撮っているカメラは別にある、ということで、サブのカメラである。

この場合、撮影しているスタッフはカメラマンではないことが多い。多くはAD(アシスタント・ディレクター)である。ADはカメラマンの助手ではないので、もちろん撮影に対する訓練などは受けていない。

使うカメラが民生用のビデオカメラをベースにしたもの、あるいは民生用そのものなので、素人のADでも一応撮影することはできるのだ。とらえた映像のクォリティは別にして。

何より、カメラ自体が安い。だから制作会社でも、複数のカメラを備えることができる。稼働が見込めるのなら、レンタルするより買ってしまったほうが得だ。

バラエティのロケなどは、ある意味ドキュメンタリーなのだ。タレントを投入し、ある程度の段取りだけで、後はタレントのリアクションにまかせる。撮り直しができないことはないが、タレントのテンションも下がるし、二度といいリアクションは引き出せないことが多い。

何より、映像の質より、タレントのパフォーマンスを余すことなくとらえるということが要求される。だから、複数のカメラを投入する。最初は、あくまで押さえのつもりだったろう。だが、今ではメインのカメラを差し置いて、サブカメラの映像が使われているケースも目立つ。

問題は、撮影のウデを持ったカメラマンではなく、ADを撮影スタッフとして投入しているということだ。制作費の低下によって、人件費を削らなければならない制作現場の苦渋が目に見えるようだ。

これには問題がある。テレビはとにかく多くの人が目にする映像だ。多くの人が目にしている映像のクォリティが低下するということは、映像に対する社会的な意識の低下を引き起こす。

「テレビはプロがつくる映像。テレビでもああいう映像を放映しているんだから、映像というのはそういうものなんだ」
本当は違うんだ! と声をあげても届かない。
このままでは、社会的な映像のクォリティに対する意識がどんどん低下してしまう。制作現場にいたるまでもだ。

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