コンテンツ評論 テレビ番組評

「#花子とアン」をみた

2014/09/29

女学校の卒業式

女学校の卒業式

朝ドラほど、脚本家の力量が試されるドラマは少ないのかもしれない。

完全オリジナルではなく、実在の人物をモデルにして描く場合は、特にそうかもしれない。

「赤毛のアン」を翻訳したことで有名な、翻訳家・児童文学者の村岡花子の生涯を描くのが本作のストーリーなのだが、原則史実をなぞりながら、相当な改変が加えられている。

通常、こういう場合は主人公の姓名をアレンジして、史実に沿ったフィクションという形式をとるのだが、本作は本名のみ改変したものの、村岡花子の名はそのまま使っている。

この作品ほど、Twitter上で毎回批判が相次いだ朝ドラはなかった。主にそれは脚本に対するものだったという気がする。

おおかたの意見として、主人公が修和女学校に在学していた当時まではよかった、というものだったという気がする。たしかに、物語が積み重ねられていないせいか、大きな破綻がなく、舞台や登場人物も固定されていたので、比較的すんなり物語に入れた。

しかし、卒業してからは迷走の一途。そもそも、主人公が何をしたいのかがよくわからない。モデルとなった人物が、翻訳家、児童文学者、編集者、また日本初のラジオパーソナリティとしての一面も持っていた、今でいうマルチタレントだったことがまずかったのか、という気がする。

主人公の「志」がわかりやすいことが朝ドラでは必須な気がする。そのこころざしというものが、物語の基本線になってくるからだ。しかし、それが見えないことに加えて、中盤では恋愛模様を描くことが主になってきて、余計に何をしたいのかわかりにくくなる。副主人公ともいえる蓮子のエピソードのほうが存在感を発揮するに至っては、何をかいわんや。おそらく脚本家は「何を描きたい」というものがなく、その時々で興味の赴くままに書いていったのではないだろうか?

終盤にいたっては、史実に沿ったものなのだろうが、散発的にエピソードが散らかってきて、しかもエピソードどうしに相関がないという、なんとも悲惨な状況になっていた。

脚本がグダグダではあるが、俳優や演出はレベルが高い。それで何とか見られるものにおさまっていたという感じがする。(主演の吉高由里子の表現力については言いたいこともいろいろあるが、それはまあここでは割愛しておく)

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