コンテンツ評論 テレビ番組評

「#あまちゃん 春子と鈴鹿」

2013/12/09

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東京編中盤、はじめて春子と鈴鹿は対面する

キーワードは「光と影」。

アイドルになるために上京した春子だが、さまざまな運命のいたずらで芸能界には入れず、しかし新人のスカウトマンだった太巻と知り合う。そして、持ちかけられたのが「鈴鹿ひろ美の歌の影武者になる」という話。

半信半疑のまま、春子はスタジオに入り、歌い、結果的にその曲は60万枚のヒットになる。(ミリオンではなく60万枚にとどまる、としたあたりの匙加減も微妙だが)

だが、脚光が当たったのは鈴鹿ひろ美であって、春子ではなかった。「光と影」はただ単純に、アイドルとして成功した鈴鹿が光で、アイドルになれなかった春子が影という意味ではない。

芸能界では「光」は鈴鹿、そして春子は「影」…。
しかしながら物語のうえでの位置は反対だ。物語は、そしてアキの思いは過去の春子に「光」を当てる。過去の鈴鹿は顔を出さない。それどころか、鈴鹿は最後まで出身も本名も、正体を明かさない。謎の人物のまま。ここでは、鈴鹿が「影」…。

「光あるところに影がある」(懐かしい)わけだ。
夢破れて春子は家庭に入り、アキを産む。そして、鈴鹿は映画の中でそのアキの「母親」を演じる。母親としては鈴鹿は「幻影」。

春子と鈴鹿がはじめて無頼鮨で対面するシーン、鈴鹿は執拗に春子に「声が似ている」と言う。客観的に似て、二人の声は似ていない。
これを指して、後にアキは「知っていましたよね」と鈴鹿に言うが、鈴鹿ははぐらかす。そう、たぶん知っていたのだろう。

アキが「潮騒のメモリー」をレコーディングするスタジオにて、春子と太巻、鈴鹿が一堂に会した時、真っ先に謝ったのは鈴鹿だった。これをみて「鈴鹿さんがなぜ謝るのか? 差し替えたのは太巻なのに」ということを言う人がTwitterにも大勢いた。それが理解できたのは、最終回直前だ。

海女カフェでのリサイタルで、鈴鹿ひろ美は朗々と「潮騒のメモリー」を歌いあげる。音痴であったこと自体が演技で、もともと歌は歌えたのだろうと、春子は気づく。それなら、鈴鹿の謝罪は腑に落ちる。自分が歌えば、春子の可能性をつぶすこともなかっただろう、という意味。

では、自ら歌番組に出たがった理由は? おそらくは、歌の影武者の存在を明るみに出すためだっただろう。だが、それも太巻とテレビ局の共謀によって阻まれてしまった。

鈴鹿と太巻がはじめて無頼鮨で語り合うシーン。(これも、後に明らかになったようにふたりが同棲していたことを考えると、不思議なシーンだが) 「思い立ったようにカラオケで『潮騒のメモリー』を入れてみるけれど、歌えないのよね」と鈴鹿が漏らす。歌えないのは覚えていないのではない、罪悪感だったのだ。

春子の歌は「光」だった。鈴鹿の歌は「影」に沈んだ。その鈴鹿の歌を、光の中に救い上げて、春子と鈴鹿の物語は幕を閉じた。

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