映像文化を語ってみる

投稿ムービーの限界をいかに超えるか

2010/12/12

ITmediaに映像系エンジニア/アナリストの小寺信良氏がコラムを寄せている。
ムービーがテレビを捨てる日」意味深なタイトルだ。

テーマは、デジカメやケータイの動画撮影機能が動画コンテンツにどう影響を与えるのか、ということだ。これは映像づくりの文化復権をとなえる私としても非常に興味があるところなのだ。

小寺氏は、動画メインのデジカメについて、下記のように語る。

 これらのデジカメの動画機能は、テレビ屋から見れば「わかってない」ということになるかもしれない。だが筆者は逆に、「わかる必要はない」という気持ちもある。デジカメ動画は、もはやテレビに対しての互換性を捨てるべき時期に来たとさえ思っている。

テレビ制作の技術畑を経験した小寺氏であるが、真意はこういうことらしい。

 目の前のものが「撮ること」によってどのように変化したか。自分の「こう撮りたい」という意志がどのように投影されたか、それが今すぐにわかるから、デジカメは面白いのである。(…)

 これを動画でできないか。これが映像のプロの世界で起こっている、もう1つのムーブメントである。みんな映画のような個性ある映像を作りたいのだ。このアプローチは、ハイエンドのビデオカメラでも行なわれているが、もっとも簡単に実現できるのが、デジカメのムービー機能であるはずだ。「テレビに映す」ということをあきらめれば、ガンマや色温度、色域をむりやりNTSCに押し込める必要はない。もっと高い領域での映像美が表現できるはずだ。

たしかに、映像にとってテレビというのはひとつの受像手段にすぎない。

テレビが家庭の中心であった時代ははるか昔のことだ。キングオブメディアとしてのテレビの地位も揺らいでいる。テレビにこだわる必要はないような気もする。

それはよしとして、だがその先にあるのは何だろう?
小寺氏はYouTubeなどの動画コンテンツの隆盛にからめてこう語る。

 そして今後問われていくのは、そこに写った面白い事柄の見せ方である。今後このようなムービー投稿サイトが隆盛となるならば、著作権的にクリアな完全なるプライベートムービーは、その大半が1カットとなることが予想される。一般の人が編集してまでコンテンツを作るというのは、今はパソコンを使えばそれほど難しくはないが、それをやるモチベーションが維持できない。

うーん。ここは賛同できない。

モチベーションが維持できるかどうかは、非常にパーソナルなことだ。おおかたの人はそうなのかもしれないが、「一般の人が…」と十把一絡げに言ってしまうのは乱暴だろう。一般人であっても、ちょっとしたモチベーションさえあれば、編集もするだろうし、コンテンツも作るだろう。

さらに小寺氏はこう語っている。

 ただこのような投稿ムービーの面白さは、やがて限界が来るだろう。それはすでに現在のビデオジャーナリズムの中に顕著化し始めていることだが、「物作りの魔法」が起こらないからだ。
(…)
 1人で作っていくものは、常に等身大の自分を超えられない。それを超えたければ、自分自身の成長を待たなければならない。だがその成長は、自分1 人ではなし得ない。個人投稿というムーブメントは、そういうループに陥りやすい構造を持っている。それは映像文化にとって、必ずしも良いことばかりはもたらさないということである。

これは激しく同意。

ただし裏を返せば、個人で制作・投稿したとしても、それをいろんな人が見て、レスポンスを返してくれ、それによって自分が成長をはかることのできる環境さえあれば、そのループには陥らないはず。

さらに言えば、そこで協業する仲間を見つけ、いっしょにものを作っていく面白さにめざめれば、一般の個人であっても映像コンテンツを作り続け、発信も続けていくことができるだろう。

そういう環境が必要であれば、作ろうと思う。

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