映像文化を語ってみる

「文化を映像で遺す」ということの意味

2011/01/05

なんか、久々に映像文化を語ってみたくなった。

注目しているブログに、ITmedia+D Blogのメディアコンサルタント西正さんのブログがある。そのブログの最新エントリ「放送を文化と考えた理由(1)」を読んで考えた。

地方に行くと、本当に人間国宝に至らないものの、それに近い「その道の名人」がいます。「ワラジを編む」とか。ところが、大変な高齢で、後継ぎはいないと言います。「それでは、この方が亡くなったら、どうするのですか?」と聞くのですが、十中八九は、「残念ですが・・・」と言われます。そこで偉そうなことを言っても「それなら、アンタが継ぎなさいよ」と言われるだけです。

だけど、明治・大正までならイザ知らず、今は映像で撮れるわけです。「そういう人がいらっしゃって後継者がいないんです」という番組をやったら、世の中は広いですから「俺が・・・」と言う人が出てくるかもしれません。ところが視聴率が取れないと言う。それで、地方局の人たちと話に行くつど「せめて映像として残しておくべきではないか」と言っています。

整理しよう。
この提言はふたつの段階からなっている。
その1は「映像で文化を撮影して遺す」ということである。
その2は「その撮影された映像を番組として放送する」ことだ。

その2は、放送局にしかできないことだ。
だが、その1は誰にでもできる。
上手にやれるか否かは別として、ビデオカメラを持っている人なら出来る。

後継者のない文化・技術を撮影して、後世のために遺しておく。

人間国宝でもある落語家の桂米朝師匠が、戦後上方落語の復興に注力したころの話を思い出した。古い噺を掘り起こして演じる。すでにその噺を伝承した落語家はいない。文字で遺された記録をもとに演じるのであろう。高座でその噺を聞いたことのある人に話を聞いて、どのように演じていたかをできるだけ再現したという。

もし、過去の落語家が実際に演じた映像が残されていたなら、米朝師匠の苦労は万分の一になったのではないか。

後継者は、はるか後世に出てくる可能性もあるのである。
もし、そうした過去の後継者に、さまざまな文化・技術を伝えるべく映像が残されていたなら、復元の作業ははるかに楽になるのだ。

だから、これは別にテレビ局に限った話ではないと思う。
とりあえず、途絶えてしまうかもしれない文化・技術の映像ライブラリを残すこと、これは誰にでもできることなのだ。

「プロジェクトX」どころでない「文化」が日本の至るところにあります。放っておけば消えてしまうかもしれない。「それだけの運命だったのさ」と考えるのは、ちょっと寂しいものです。

番組というものは必ずしも放送局が作らなければならないわけではない。
放送するのは放送局にしかできないが、コンテンツは個人のクリエーターだって作りうるのだ。

TVバンクの動画投稿などとも考え合わせれば、ひょっとして発表の場はさらに広がるのかもしれない。IT企業も商売ばかり考えていないで、そのインフラを少しでも文化のために使っていただきたいものだ。

もし日本各地に残る文化・技術を撮影してライブラリ化し、さらにそれを放送や動画配信で発表することで暮らしていけるのなら、私はそれをやりたい。

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