映画・DVD評(邦画)

「ALWAYS~三丁目の夕日」のシナリオを読む(1)

2011/01/05

雑誌をタダで手にいれる方法を発見したので、普段は読まない「月刊シナリオ」1月号を取り寄せてみた。

すると「ALWAYS~三丁目の夕日」のシナリオが掲載されていた。
この映画への感想は、このブログでも一番トラックバックやコメントを頂いている記事。ちょっとシナリオを読んでみた。

「ALWAYS…」については、さまざまな人がそれぞれのブログ上で「素晴らしい映画」とか「泣きました」とかの感想を語っているようだ。
しかし、私にはもうひとつの印象だった。
それは結局『昭和33年の世界をビジュアル的にリアルに作りこむことによって視覚的印象に訴える映画であって、実はストーリー的にはわりと薄めのお涙頂戴にすぎないのではないか』ということに尽きる。

そこで、このシナリオを読んでみて、少しストーリーまわりのことを考えてみようと思ったわけ。ちょっと長くなると思うので、数回の記事に分けて書く。
原作である「三丁目の夕日」は読んでないので、思わぬ誤解がある可能性もあるけど。

ざっとシナリオを読んでみて、この映画はふたつの「家族」を中心としたお話であるということに気がついた。

ひとつは「有限会社鈴木オート」を営んでいる鈴木則文(堤真一)親子に、住み込み従業員である星野六子(堀北真希)を加えた一家。

もうひとつは、作家兼駄菓子屋店主の茶川竜之介(吉岡秀隆)、預けられている子ども淳之介(須賀健太)、および茶川が思いを寄せている小料理屋のおかみ石崎ヒロミ(小雪)の三人からなる「疑似家族」。

今回は、鈴木一家と六子の関係を見ていこう。

六子をめぐるストーリーは、3つの部分に大きく分かれる。
(1)六子が集団就職で東京に来てから鈴木家の一員となるまでの話。
(2)六子が鈴木家の一員として夕日町三丁目の人々とかかわるいくつかのエピソード。(特にシュークリームのエビソード)
(3)六子の年末年始の帰省をめぐる話。
事実上この映画は(1)ではじまり(3)で終わるのだ。

(3)の部分でもひとつ納得がいかないのは、六子と青森の両親との関係が十分に描かれていないせいなのだ。
六子は、則文からボーナスがわりと渡された帰省の切符を返してこう言う。

六子「私が家を出るとき、お母ちゃんたち喜んでたです。ああ、これで口減らしが出来るって。手紙さ書いても返事もこねえし…私、捨てられたんです。帰っても誰も喜びません。迷惑がられるだけです」

これほど大事な心境描写を、このひと台詞のみで表現してしまう足りなさが、六子の心理を不明確なものにしてしまっているような気がする。

(1)の前半は鈴木オートに対する六子の過大な期待が裏切られる顛末だが、ここでの六子は都会生活と就職先である鈴木オートへの大きな期待で満ちている。そこには「捨てられた」悲しみなど微塵も感じられない。
後半、則文が六子に「クニに帰れ」と怒鳴るのに対して「おら、帰れねえ、帰る場所なんてねえ」と切り返す台詞はあるが、これも売り文句に買い文句であって、特に印象深くはない。

(2)の部分では、盆の帰省を六子が断るというわずかな伏線があるものの、理由は言わない。

以上のふたつの台詞が、エンディングに対する伏線のすべてといっていい。この伏線の不足が、エンディングでの六子の態度をとってつけたような感じにさせているのだろう。

エンディングでは、トモエ(薬師丸ひろ子)が六子の母から鈴木家宛にきた何通もの手紙を六子に見せてこう言う。

トモエ「あの子は末っ子のせいか寂しがり屋で、里心がつくといけないからこの手紙は見せないでくれって書かれてたんだけど…送り出したときもね、優しくすると辛いから、厳しく突き放してしまったって書いてあるわ」

これで、一挙六子の心が帰省へ傾き、ミゼットで上野駅へ走るエンディングへとつながるのだが…。
これまた、台詞だけでおさえてしまっている。
映画って映像表現だと思っていたが、これでいいのだろうか。

たしかに、エピソードの多い映画であるが、もうひとつ涙につながらなかった原因が、こういうシナリオの雑なところにあるような気がする。

次回は、竜之介と淳之介の疑似親子関係について考えてみる。

-映画・DVD評(邦画)
-,