コンテンツ文化論 映像文化を語ってみる

身の回りにある文化の危機


音楽家の佐久間正英氏のブログ記事「音楽家が音楽を諦める時」については以前に書いた
BLOGOSに佐久間氏へのインタビュー記事が載ったので、ぜひお読みいただきたい。

音楽プロデューサー・佐久間正英氏が語る「音楽業界の危機的状況」 (BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス)

この中で佐久間氏はこう語っている。

僕はあくまで文化の話として危惧があって、このままだと日本の音楽文化はもっとだめになっちゃうぞ、という話として書いたものです。だから「音楽家が音楽を諦める時」は、ビジネスとしてではなくて、この先、日本の音楽をもっとよくしていくことを諦めなくてはいけないと。そういう意味の”諦める”というニュアンスだったんですね。

わかる。音楽についてだけでなくて、私の専門である映像についても、同じことがいえるのだ。上の文章の「音楽」を「映像」に置き換えただけで、私の思いと重なる。

さまざまな部分について同じことがいえるのだが、いまはその中のひとつだけについて語ろう。
後は同じようなことがたくさん存在するのだ、と想像していただければよい。

 

たとえば昨今の商業映像制作においては「照明」がないがしろにされているような気がする。

映像は、誰でもわかるとおり、被写体に当たって反射された光を像としてとらえるところからはじまる。
そういう意味で、真っ暗な場所はもとより、見た目に薄暗い場所での撮影は照明なしに行えない。

だが、普通に人間が行動するのに不自由のない明るい空間で、照明が必要だというと一般人には驚かれる。

これは照明の中に「光による演出」という側面があるからだ。被写体の側で行える演出以上に、照明による演出は大切なのだ。
そのために、照明さんという専門職がいて、専用の照明機材を駆使して演出の意図通りの照明を行ってくれる。

残念ながら、昨今の制作現場では演出照明は省略されることが多い。
そのための人件費、機材費、そして使う時間を省こうという傾向があるからだ。
ひとつには、最近のビデオカメラは明るく写るということがある。
民生用ビデオカメラの技術がそのまま使われているので、照明なしでも明るくは写るのだ。

しかし、画像が明るいということと、照明によって被写体が演出的に照明されているということとは全然違う。

それでも、予算や時間に制限のある作業の中で、やむなく照明を最小限にするのは仕方がない。

問題は、こうした映像制作の中に存在する「ノウハウ」が継承されていかないことだ。

ネットで激安予算の映像制作を謳っている制作会社のクリエイターには、映像制作業界を経ずに、アマチュアから起業された人も多い。
それらの人の中には、こうした照明の専門家と接触する機会のなかった人も多く、自ら保有する最低限の照明機材のみを使って、画面に明るさを与えるのみの照明を行っている場合がある。

そうした作業が支配的になってしまうと、光によって演出された撮影のノウハウが次世代に受け継がれていくのかどうか、危惧がある。

身の回りの仕事の中から、こうした文化的な要素が失われていくのかと思うと、残念でならない。

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