映像表現の研究

「ハサミ男」の原作を読む その1

2011/01/04

先日みた「ハサミ男」の原作本を読んでみた。



ハサミ男
殊能将之 講談社文庫 刊
美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯「ハサミ男」。三番目の犠牲者を決め、綿密に調べ上げるが、自分の手口を真似て殺された彼女の死体を発見する羽目に陥る。自分以外の人間に、何故彼女を殺す必要があるのか。「ハサミ男」は調査をはじめる。
精緻にして大胆な長編ミステリの傑作!

映画レビューのエントリで書いたとおり、映像表現と文章表現のちがいを考察するのに格好の題材だった。
あくまで映画を先にみた者の視点として、映像と文章のちがいを念頭において読むことにした。

完全にネタバレするので、未読、映画も未見の方への配慮のため、このブログでは珍しいことだが、追記機能を使用する。

「ハサミ男」の主人公は、そのとおりハサミ男である。
ただし、これはハサミを被害者の首に突き立てる連続殺人犯に対してマスコミがつけた俗称で、その正体は安永知夏という女性である。

知夏は、第三の被害者を調査中、その被害者がハサミ男の犯行を真似たやり方で殺害された現場に出くわしてしまう。いわば、本物のハサミ男が偽物のハサミ男が誰かということを含め、第三の事件の真相を調査していくのがストーリーの中心で、これは小説も映画も同様である。

小説も映画も、ハサミ男の側から描くシーンと、磯部刑事を中心に捜査側から描くシーンを交互に配置している。小説の場合、ハサミ男サイドは一人称、捜査サイドは三人称と人称を使い分けているが、これはこの作品のメイントリックのための配慮である。

知夏はいわゆる多重人格者である。小説上では主人格は「わたし」。男女どちらとも特定できない思考、言行の持ち主で、名前も終盤まで注意深く伏せられている。最終シーンを読むとわかるが、この「わたし」は本当の知夏というよりも、知夏の中に潜むハサミ男そのもののようだ。

小説のメイントリックは、主人公の男女別を最後まで伏せることによって、捜査陣がハサミ男の嫌疑をかける日高光一という男と誤認させるミスディレクションである。私は映画からみたため、克明にこのトリックを観察することができた。

このトリックそのものは、映像的することは不可能である。一人称という叙述法のあいまいさを利用したトリックだからだ。一人称映画(終始、主人公の主観のみで描く)というのもないことはないが、不自然であり、すぐにネタバレするだろう。また、どうせ主人公の声が入れば男女別はわかってしまう。

知夏にはもうひとつの人格があって、時折姿をあらわす。
小説では「医師」と呼ばれるが、知夏の父親のイメージを投影したもののようだ。小説では知夏が自殺を企てて失敗した後に決まってあらわれ、知夏と会話を交わす。

映画では「医師」というような呼称はついていないが、この役をトヨエツが演じている。多少年格好はちがうものの、原則的に同じ人格のようだ。
ただし、映像的なトリックとして、小説のように出番の少ない役ではなく、ほとんどすべて知夏と行動をともにする不思議な男として描いてある。

映像的なトリックとして、池田敏春監督は小説のトリックではなく、トヨエツの演じる男こそハサミ男である、というミスディレクションを作り出そうとした。麻生久美子演じる知夏は、ハサミ男の共犯者というか、調査役であり、実際の犯行はトヨエツのハサミ男が行っていると思わせるわけだ。

従って、映画は第一、第二の犯行シーンからはじまりながら、実際の犯行は描写しない。さらに、ふたりの関係を中盤までまったくあかさない。

かくて、映画では麻生久美子とトヨエツが、まるでコンビ探偵のように動き回ることになった。

いわば、文章のトリックに対して映像のトリックを持ってきたわけで、トリック小説に対してトリック映画で挑んだわけだ。

私は何の予備知識もなく映画のほうを先に見たので、中盤まで麻生久美子とトヨエツの関係はいったいなんだろう、と疑問に思っていた。

すでに長く書きすぎた。続きはまた別のエントリで。

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