コンテンツの育て方 コンテンツ文化論

マスメディアの緩慢な自殺

2011/01/14

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Business Media 誠「相場英雄の時事日想:ドラマの世界でも起きている! スポンサーに気をつかった規制

例えば、保険会社がスポンサーであれば、保険金殺人はダメ。これが自動車会社ならば、轢(ひ)き逃げは論外。ビール会社ならば、アルコール中毒患者を登場させるのはもってのほか、という具合なのだ。こうした事情を背景に、最近の刑事ドラマでは絞殺や銃器を用いるケースが増えているのだとか。(…)

最近は番組制作費の削減傾向が強まる中、再放送への依存度が高まっている。このため、脚本家によれば「通販会社など再放送のスポンサーになりそうな企業にも配慮した脚本を書かなければならない」という側面も強まっているのだという。

将来の再放送のスポンサーにまで気をつかって脚本を書かねばならないとしたら、およそ世の中の商品、サービスに抵触するような話は書けなくなる。

テレビのドラマが作品ではなく、所詮は広告(CM)の付属物であることの証左といえるのではないか。

事はエンターテイメントであるドラマだけでなく、ジャーナリズムの世界でも起こる。

「クルマや電機、流通など一大スポンサー企業に対して、批判はもとより嫌味を書いただけでも一騒動起こる」(某紙中堅記者)という側面が強まっているのだ。

一騒動とは、企業側からのクレームはもとより、メディア側の広告営業、ひいてはこれを過度に気にする編集幹部から、自主規制を暗に迫るよう指示が出されるというのだ。

要するに広告収入を削られるのを恐れて、スポンサー企業に対する否定的な報道が画面や紙面に載らなくなる、ということだ。

テレビ・新聞が平等な報道を行っているという前提で、その報道を鵜呑みにしてはいけない時代がきてしまっている。
メディア・リテラシーがこれほど重要な時代もないだろう。

しかし翻って考えてみれば、これはマスメディアが自分で自分たちの価値をおとしめているのに他ならないわけだ。
スポンサー企業に気を遣いすぎるあまりに、画一化したドラマばかりになれば、視聴者に飽きられてしまう。
公平な報道姿勢ではなく、スポンサー企業に気を遣った報道であると知れ渡れば、誰もニュースを見なくなる。

いわば、 今日の飯を確保するために、田畑を荒らしているわけだ。

日本国が少子化を止められないように、マスメディアも広告収入の減少を止めることはできない。
古き良き時代はもう戻ってはこないのだ。

今こそ、縮小再構成の時期だろう。
できるだけ広告収入に頼らないように、ビジネスモデルを切り替えていかなくてはいけないのだろう。
広告主ではなく、視聴者からカネをもらう方法を模索していく必要があるんじゃないだろうか。

そのためには、一度会社をつぶすくらいの気持ちでないと無理かもしれない。

だが、緩慢な自殺の最中にあるという自覚があれば、それくらいの気持ちは起こらないものだろうか?

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