映像文化を語ってみる

ちょっと考えさせられた記事(DAVICS2より)

2010/12/20

(現在テスト運用中の「DAVICS2 映像つくるヒトのSNS」に投稿した記事の加筆・再編集版です。)
オンラインマガジンのITmediaには、小寺信良氏のコラムをはじめ、映像屋さんにとって考えさせられる記事が結構載っている。

12/12づけの「ケータイだけでできる動画共有――映像インデクシング技術」という記事は、映像制作側からのアプローチではないのだけど、非常に考えさせられた。

まず筆者は、YouTubeなどによってアマチュアが自ら撮影した映像を公開するチャンスが増えているが、動画は内容を参照しにくいメディアだ、という意味のことを言う。

 そのため、映像には編集という作業が必要となるのだが、現実はパソコンでの映像編集は難解で、一般人にはまだまだ敷居が高い。これからのCGV(筆者注:Consumer Generated Videos/消費者生成ビデオ)には、どんな内容が収められているのかを端的に伝えるための、何らかの仕組みが必要なのである。

前半は私には?。 まあ一般人にはそう思われているのかな。
なんとなく、最近の編集ソフトが高機能をうたいたいあまり、複雑化しすぎているからのような気がする。…それはさておき。

後半は賛成。

だんだんYouTubeなどの動画が当たり前になるにつれて、それを再生させて、わずかな時間といえどムダにならないか、ということが気になる。

端的に一瞬で、どんな内容の動画かを判断できるにこしたことはない。

記事は本題に入って、 NTTサイバーソリューション研究所で開発中のパーソナル映像インデクシング(索引づけ)技術の紹介をする。

どんな技術かは詳しくは元記事を読んでもらうとして、ここでは一部を引用して、

「映像中のカット点やテロップ文字などの映像内容が変化するポイントを自動抽出し、それらイベントの静止画像を一覧表示できる機能」の改良版
とだけ言っておく。

どう改良されているかといえば、いわゆるプロの作った編集上がりの映像ではなくて、シロートが携帯で撮ったような映像からも、そうした索引づけができる。

それを応用して、たとえばパンしている映像からパノラマ状の静止画像を作り出すことができるのだという。

この技術、たとえばノンリニア編集ソフトで作業している我々も、恩恵を受けることができるのではないかと思った。

編集中、多くの時間は映像の内容を確認することに費やされている。ノンリニア編集で、クリップ分けされるようになってて少しマシになったが、それでも映像は再生してみるまで内容がわからない、ということでOKテイクの確認など、主に撮影時の記憶に頼っている現状だ。

撮影に参加していない借用素材などでは、どういう映像内容になっているかの確認からはじまるという、非効率的な作業を強いられる。

こうしたインデクシング技術がノンリニア編集ソフト上に応用されれば、一目見て映像の内容が把握できるようになり、編集の効率化をもたらす。それは、編集を行うクリエーターにとって、高度なエフェクトが追加されるよりずっと嬉しいことだと思う。

しかし、この記事の本当に考えさせられる部分はこれからだ。

これからのCGV(くどいようだが、消費者生成ビデオ)はふたつに分かれると、NTTサイバーソリューション研究所の人はいう。ひとつはまったくパーソナルなもので、特に工夫を必要としないもの。

そしてもう1つは、映像投稿・共有サイト向けやオフィシャルな情報開示のように、多くの人に見てもらうことを想定している場合だ。見やすく編集し、作品として飾り付けがされていないと、誰も見てはくれないため目的が達成されないことになる。

そうそう。これは私が考えていたことと同じなのだ。
YouTubeなどを起爆剤として、クリエーターではない普通の人でも、映像作品を作って公開する時代がくる。

そのためには、撮影する際のテクニックやノウハウも同じように重要となる、と研究所の人はいう。

そうそう。

たんなるビデオカメラによる記録ではなく、ひとつの「映像作品」をつくるか否か、まさしく「人に見せる」ということを意識するかどうかにかかっているわけだ。

 研究グループでは、映像を撮る時点からある程度のサポートができるよう、例えばシナリオ段階から支援するテンプレートの開発や、撮影品質を保つ管理システムなどの研究も進めているという。それが実現すれば、映像品質が向上し、公開する機会が増え、映像資産の流動化が加速されると考えている。

えーっ? それってどんなものなの? と思う。
我々映像クリエーターが、経験で培ってきたことが、ひょっとして科学的な視点から研究され、分析されて、システム化されてしまうのか。

それは、我々にとって、敵か? 味方か?

そうしたシステムが稼働する未来は、いったい映像にとってどんな未来なのか?

「映像というメディアをテキストと同様に扱える土台を作りたい」と研究所の人はいう。

たしかに、今や誰でも持ってる携帯やデジカメで動画が撮れる。家庭に一台はあるビデオカメラを使えば、放送に耐えうる画質の映像だって撮れてしまう。そんな時代だ。一般人がブログに文章を書いて発信するように、映像での発信を行う時代が間近に迫っているはず。

記事は『今後、映像は単に「撮る」「観る」だけではなく、「人に魅せるメディア」として扱われていく。映像でいかに表現できるかということを、本格的に考え始めるときが来ているのだろう。』と結ばれている。

まさに、私が「DAVICS2 映像つくるヒトのSNS」という場を用意することによって考えたり、実現しようとしていたテーマとすごく近いのですよ。我々、映像クリエーターとはまったく反対の立場からのアプローチにより、近いような考えに至ったのだなあ、としばし感心。

我々はいま「空気のように映像を吸いこんでいる」といえる。たとえば、テレビがそうだ。映画がそうだ。ネット上のあらゆるサイトで映像が乱舞する。街を歩けば、映像が目に入らない日はない。

しかし、今まで「映像を吐き出す」のは一部の人だけだった。その一番いい例が、映像のクリエーターである。プロであるとアマチュアであるとを問わず、映像を生成するのは一部の特殊な人だったのだ。

それが、特別な人だけの営みではなくなる日が来る。

その時、映像クリエーターとは社会にとってどんな存在になるのか? 過去の遺物となり果てるなのか、カリスマ的な指導者とあがめられるのか、それとも一般に埋没するのか?

また、その時に映像をつくる「術」というか「メソッド」というか、そういうものはどうなってしまうのか?

そんなことをいま考えている。

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