オリンピックで野球を見たいか?

8月 25, 2008 on 8:24 am | In 平成徒然草 | No Comments

北京オリンピックの野球はご存じのような結果に終わったが、私としては妥当な結果だったと思う。

少なくとも準決勝進出した4チームの中で日本が最弱であったことは、 一次リーグから見ていてわかっていた。

今朝のニュースによると、日本の選手団長だか誰だかが会見で星野ジャパンを批判していたそうだ。

私はいちおうプロ野球ファンなのだが、どうもオリンピックの中でプロ野球選手たちが試合を行うのには違和感があった。

オリンピックはむしろ、普段メディアに登場することのないマイナースポーツにスポットライトが当たる場であっていいのではないかと思う。今回で言えば、太田選手が銀メダルを獲得したフェンシングなどがいい例だ。

少なくとも日本では毎日試合が行われ、テレビ・新聞にも毎日情報が掲載されるプロ野球は、別にオリンピックに出る必要はないのではないか。テレビなどでは2016年オリンピックで野球を正式種目に戻すように努力する、などと謳われているが、もう十分という気がする。

むしろ、プロ野球同志での国際試合を充実させるほうが、選手・ファンともにメリットが大きいような気がする。来年第2回のWBCが行われるらしいが、必ずしもWBCである必要はないと思う。むしろ、アジア各国でのナショナルチーム戦を毎年開催してみてはどうか。

日本としては、韓国にさらわれた世界一の座を奪還する、という目標もある。四年に一回の臨時速成チームで闘うのではなく、サッカーのように常設のナショナルチームを設置し、常に臨戦態勢を保ってほしい。

日本相撲協会ばかりに改革が必要なのではない。プロ野球機構も、そうした目を持って自己改革をはからないと、いずれファンに見放される時がくると思う。

「CHANGE」をみた

7月 15, 2008 on 7:44 am | In テレビ番組評 | No Comments

話題のキムタク主演政治ドラマ…。

いくらなんでも政治素人で当選したばかりの一年生議員が総裁選に勝って総理大臣になってしまうのはどうか、なんて感想はいまさら言いたくない。

意外と政治というのはドラマのネタにはなるのだな、と思った。
過去にも何回か政治ネタのドラマはあったが、それぞれなかなか面白かった。
なのに後が続かない。

キムタクがいきなり総理大臣にはならず、一年生議員として政治の世界をじっくりと経験していく経過をドラマにしたほうが面白かっただろう。(話題性は欠けるかもしれんが)世間の常識は永田町の非常識、といった現象を経験しながら、主人公が政治家として成長していくドラマだな。

最近の連ドラはすべて1クールで片づくことを前提に企画されているから、こうしたじっくり構える設定に向かない。たとえば、1シリーズ半年。少なくとも3シリーズをかけて総理大臣まで登りつめるストーリーにする必要があるだろうな。

政治ドラマが面白いのは、やはり現実の政治を投影できるからだ。

現実的に政治家が直面している問題や、政局をそのままネタにできる。現実とドラマの相互作用で、すごく面白い展開だってありうる。ただし、柔軟なシナリオ構成力や、大胆なプロデュースが必要だから、昨今のサラリーマン化したテレビマンには無理かもしれない。

さらにもうひとつの「ラスト・フレンズ」

6月 30, 2008 on 10:15 am | In テレビ番組評 | No Comments

全話見て、総集編+αの「もうひとつのラスト・フレンズ」までいちおう見たのだが…。
どうも釈然としないものが 残っている。
(ドラマの説明まではしたくないので、フジテレビ公式サイトWikipediaを見てくれ)

それは、DVやストーカー被害といったものに対して、登場人物の対応がまったく間違っていること。
もちろん、ドラマとしては悲劇を描きたいのであって、そのためには社会的に正しい対応をとっていてはストーリーが成立しないということもあるだろう。
しかし、だからといって公的な支援制度や法律を無視してストーリーが進んでは、どうもおかしい。
いつの時代が舞台なんだ、ということになってしまう。

「もうひとつのラスト・フレンズ」と銘打った特別編がそのあたりの回答になっているのかと期待したが、単に後日談を加えただけの 総集編でがっかりしてしまった。

そこで「さらにもうひとつのラスト・フレンズ」を考えてみた。

美知留、瑠可、タケルが瑠美とともにシェアハウスで暮らし始めてから、2~3年後。
ミラノから帰国してきた小倉(オグリン)・エリ夫妻をまじえて、 楽しいひとときを過ごすのは放送された後日談と同じ。
それをプロローグとして、本編はミラノに戻る機中の小倉夫妻の会話ではじまる。

小倉「あの、自殺した美知留ちゃんの元彼…」
エリ「及川宗佑?」
小倉「そう…。彼を結局死に追いやったのは、僕たちの対応のせいもあるんじゃないか、とずっと気になってたんだ」
エリ「どうして? 悪かったのは彼自身じゃない」
小倉「そうなんだけど。僕たちが違った対応をしていたら、彼も死を選ばないですんだかもしれないと思うんだよ」

そして、ドラマのフラッシュバックがはじまる。

かいつまんで、美知留と宗佑の出会い、同棲までのいきさつ。美知留と瑠可との再会。
そして宗佑によるDVシーンが描かれる。
小倉「美知瑠ちゃんがDVの被害に遭っていることを知ったとき、僕たちは、シェアハウスの仲間たちの中だけで抱え込んでしまった」
エリ「それがいけなかったというの?」
小倉「そうだ。DVはいまや社会的な問題で、公的な支援制度もあるんだ」

このドラマにおける小倉の役回りについて考えてみる。
彼はシェアハウスの住人の中では最年長で、唯一の会社員でもある。個人的には離婚問題を抱え込んでおり、法律的な問題にも関心を持たざるをえない立場だ。
本来は、この問題に対して常識的な視点を持ち込むために作られたキャラクタではなかったのか、と想像する。でないと、彼の存在の意味がよくわからない。
(彼はオープニングシーンからも削られてしまっており、主要登場人物の中でも一番影の薄い人物になってしまっている)
しかしながら、ストーリーを練り込んでいくうちに、結局「常識的な視点」「社会的な対応」といったものが削られてしまい、それとともに彼の発言機会が失われてしまったのではなかろうか。

問題に対する正しい対応、ということを考えてみる。
瑠可はみずからの性別違和感症候群に対して専門医に相談している。これは正しい 対応だといえるだろう。
いっぽう美知留のDV被害については、誰も公的、法律的な対応を示唆していない。
当事者の美知留をはじめ、瑠可、タケル、エリなどはあまり新聞なども読んでそうではないし、公的な支援や法律について知らないかもしれない。
しかし小倉からそうした視点が出てこないというのは、その控えめな性格はともかくとしても、不自然だ。
このストーリーを成立させるために圧殺したというのであれば、「もうひとつの…」と題した特別編でならば表現できるのではないか?
本編終了直後に放送する特別編で、そうした「社会的に正しい対応」を示すというのも、社会の公器たるテレビ局の役割ではないのか?
(公式サイトにはそういうページがあるが、言い訳的なものにすぎない。テレビ局ならば番組で示すべきだろう)

「さらにもうひとつのラスト・フレンズ」続ける。
ドラマの回想と併行して、公的なDVに対する相談窓口の紹介や、各種の支援制度について紹介する。
もし美知留がこの時点で、こうしたところに相談していれば、ということを小倉は言う。

エリ「そうしていたら、よかったのかもしれないね。でも彼はあきらめなかったと思う」
小倉「だけど、彼が少なくともシェアハウスの仲間のことだけを敵だと思いこむようなことはなかったんじゃないかな」

ドラマの回想シーンは進んで、美知留はシェアハウスに暮らすようになる。
宗佑はそれをかぎつけて執拗につきまといはじめる。
小倉「この時点では、彼の行為はストーカー規制法に触れるんじゃないか?」
ストーカー規制法の存在や、どういった行為がその対象になるか、が説明される。
もし美知留が警察などに相談をしていたら、宗佑に対してどのような警告が発せられたか、さらに行為を続けるとどのような罰則が課せされるか。

エリ「それでも彼はつきまといをやめなかったと思うよ。美知留ちゃんは彼を罪にはしたくなかったんじゃないかな?」
小倉「けど、逮捕されたら、彼はまだ生きていたと思うよ」

ドラマの回想シーンはさらに進む。タケルが自分と美知留との関係を邪魔していると思いこんだ宗佑はタケルに暴行をはたらく。
小倉「少なくともここに至っては、彼は傷害事件を起こしているんだ。ちゃんと警察に被害届を出すべきだった」
エリ「だけど、目撃者もいないし、タケルの証言だけでは彼を有罪にはできなかったかもしれない」
小倉「それでもいいんだ。警察の取り調べを受ける中で、彼は自分の行為がどんなに卑劣だったか、気づく機会が与えられただろうから」

結局のところ私には、美知留へのDV被害がエスカレートしていったのは、美知留とシェアハウスの仲間たちが「プライベート」の中でそれを処理しようとしたから、としか見えない。 これを「ハブリック」な場に持ちだしていれば、宗佑も単純に瑠可はじめシェアハウスの住人たちだけを敵だと思いこんで、極端な行為に出ることはなかったのだろうと思う。

まあそれでは「ラスト・フレンズ」の物語が成立しない、というのであれば、特別編というかたちを借りてでもそういう視点から物語に切り込んでみるというのもよかったのではないか、と思う。

「インディ・ジョーンズ~クリスタルスカルの王国」をみた

6月 27, 2008 on 10:56 am | In 映画・DVD評(洋画) | 1 Comment

久々にブログ復活。(考えてみたら、今年は一本しか書いていなかった…)

久しぶりに映画館に行ってきた。(この前は山田洋次監督の「母べえ」。これも書いてないな…)
インディ・ジョーンズシリーズの新作である。
とりあえずは、チケット代だけは楽しませてもらった、とだけ前置きしておく。

これまでのインディ・シリーズでは私は「最後の聖戦」が一番好きである。
これは、やはりインディの父を演じる名優ショーン・コネリーの存在感が大きい。
ただ、三作目となるこの作品では、もはやハリソン・フォードだけでは持たず、コネリーの手を借りざるをえなかった、という感が強い。

それから19年めとなる本作では、作中でも最後の聖戦から19年後となる1957年の世界を描く。
ハリソン・フォードも、もはや初老の域に入っている。なかなか、アクション映画の主役を張るにはしんどい齢だ。

その意味では、今回はどんな相方を組み合わせてくれるか、がひとつの焦点であるわけだが、これが大変物足りない。
マット・ウィリアムズと名乗る青年で、彼がインディをふたたび冒険の旅へと狩り出す。
飛び出しナイフを持ち、ハーレーのバイクに乗るあたりに、キャラクターを立たせたいという意識がみえる。

だが、実際に冒険に出ると、経験豊富なインディの助けにはならず、 どっちかというと足手まといの感が強い。
もうちょっと主役を食うくらいの、イキのいい若者にはできなかったのか。

比べると、中盤から登場するマットの母マリオン(第一作のヒロイン再登場。ただ、オバちゃん化していて、出てきた時誰だかわからなかった)のほうがよっぽど活躍するが、 こちらも主役を食うにはほど遠い。

ハリソン君演じるインディも、枯れるにはまだ早く、がんばってアクションしてくれるが、 かつてほどの勢いはない。

「なぜ今、インディ・ジョーンズなのか?」に対する作品的な答えが見えなかった。(もちろん、商売的な答えは見えているけど)

「情熱大陸/山口絵里子」をみた

3月 17, 2008 on 8:44 am | In テレビ番組評 | No Comments

情熱大陸という人物ドキュメント番組には、あまりいい印象を持っていなかった。

30分という枠で「何を描きたかったのか、何を伝えたかったのか」というのが明確でない回が多かったからだ。特に有名人をとりあげた回にその傾向が強かった。

今回とりあげた人物はバッグデザイナーの山口絵里子という26歳の女性である。まったく知らなかった人物だ。
「アジア最貧国」といわれるバングラディシュ在住で、バングラディシュの素材と職人で自分のデザインしたバッグを作り、それを日本の店で販売する、というビジネスをしている。

バングラディシュという国には日常的に痛い目にあっているようだ。仕事の進め方が遅い、約束をたがえるなどは日常茶飯事で、騙されたり盗まれたりしたこともある。しかし、デザイナーとして経営者として、笑顔を浮かべながらそれに対処していく彼女の姿が描かれる。

どこかで見た笑顔だ、と思った。実は同じ日の夕方に「誰も知らなかった高橋尚子」という番組を見ていた。高橋尚子の笑顔はあまりにも有名だ。表情は少し違うのだが、そこに共通するものを感じた。

高橋尚子のキーワードとして「あきらめなければ夢は叶う」という言葉が紹介されていた。これには強烈な違和感があった。一位でゴールを切ってこう言うのならわかるが、結果は惨敗だ。北京の代表にはなれなかった。夢は叶わなかったじゃないか…。ただ、高橋はどうやら、「夢」という言葉をちがった意味で言っていたようだ。五輪に出場して、メダルを穫るということ自体がもはや高橋の「夢」ではないらしい。それはもうすでに成し遂げたことだからか。自分から何かのメッセージを発し、それを受け取ってくれる人々がいる、という関係性の中に「夢」を見いだしているような気がする。

山口絵里子は、デザイナーとして自分の作品を世に問うことにも、経営者として事業を拡大していくことじたいにも、さほど夢を感じているようではない。それは彼女にとって手段でしかないようだ。目的は、バッグ生産という事業をバングラディシュに根付かせることで、貧しい人々に仕事を与え、生き甲斐を持たせていく、ということであるようだ。

番組中山口のパートナーであるバングラディシュ人が「日本や国際機関が無料で与える援助は、我々を乞食にするだけのことだ」と語っている。

バッグや事業だけではなく、国際関係も山口のデザインの中でつくりあげられていく。弱冠26歳の女性ながら、クリエーターであり、ビジネスウーマンであり、国際ビジネスのコーディネーターでさえある。それを気弱な笑顔を浮かべながら、自然体で乗り越えていくところに好感が持てる。すごい人だ、と思ってしまう。

番組のエンドで、スタッフが山口に「痛い目に遭いながらなぜ続けていくのか」と問いかける。返ってきた答えは、「あきらめたくなかったから」。高橋尚子と同じキーワードがここで出てきた。「あきらめなければ夢は叶う」だ。

なるほど。ふたりの笑顔に感じた共通性は、そういうことだったのか。

「蝉しぐれ(NHKドラマ)」をみた

12月 25, 2007 on 4:30 pm | In 平成徒然草 | No Comments

2003年にNHKで七回連続のドラマとして放映されたものをDVDでみた。
ちなみに脚本は映画版の監督、黒土三男である。

蝉しぐれ

主役の年齢に関する違和感は、映画版の時にさんざん書いたからもうやめよう。
内野聖陽はいい役者だと思うが、文四郎を演じるのに歳を取りすぎている点では市川染五郎と同じだ。
いずれ、自分なりのキャスティングを書いてみてもいいと思っている。
その時には、文四郎役は22~3歳ぐらいの若手俳優を当てはめるつもりだ。

光と影を使いこなした演出が目をひく。文四郎の境遇が、そのまま場面の明るさや暗さによって表現されている。
特に、父助左右衛門との最後の対面のシーンが印象に残る。

いっぽう音楽の使い方はあまり感心しない。モンゴル民謡のホーミーが使われているが、これがしつこく、重い。

蝉しぐれをドラマ化するのに、7回という回数ははたして妥当か? 不思議な省略が行なわれるいっぽう、不要と思われるようなシーンが追加されていたりする。たとえば、秘剣村雨の伝授があるのに、加治織部正が登場しない。個人的には織部は重要な登場人物だと考えているので、省略には納得がいかない。

6回で欅御殿の段が終わって、7回がまるまるその後日談となっているのも奇っ怪だ。

「となり町戦争」をみた

12月 22, 2007 on 11:10 am | In 映画・DVD評(邦画) | No Comments

原作は小説すばる新人賞の受賞作だそうだ。

となり町戦争

「舞坂町はとなり町の森見町と戦争をします」と、伝えられる。
日常の市民生活は別に何の変わりもなく続けられている。
どこで戦闘が行なわれているのか、普通の市民にはまったくわからない。
ただ、戦死者の知らせがローカル新聞の隅っこに小さく報じられている。

まあ、シュールな状況といえるのかな。
こうした奇妙な戦争の中で、主人公である会社員(江口洋介)は町役場への呼び出しを受け、偵察要員として招集される。
戦争は、町議会の決定を受けて町の事業として行なわれているらしい。
その戦争を推進する町役場職員(原田知世)と知り合い、後には偵察業務ということで同棲することになる。

主人公の中でだんだんこの奇妙な戦争がリアルに感じられるようになっていく過程が、淡々と描かれる。
平和ボケした日本人に日常的な戦争というものがどのように受け取られるのか、という面白さを狙っているのだろうが。
ただ、結局はこの中で男女の恋愛模様で締めくくっていくのは、せっかくのテーマをスポイルしてはいないか?

原田知世の女性町役場職員が、たとえば男性であったら、と考えてみる。
これは結構面白いんじゃないかな? おそらくはディスカッションがはじまるのだろう。
ちょっと原作を読んでみたくなった。

「医龍2」最終回をみた

12月 21, 2007 on 9:55 am | In テレビ番組評 | No Comments

フジテレビ系の連続ドラマ。まあ、本格派の医療現場ものといえるだろう。
普通はタブーである手術シーンの露骨な表現にも正面切って挑戦している。

「医龍」のファーストシーズンは見ていなかった。しかし、今回「医龍2」の放映開始に合わせて再放送があったので、録画して全部みた。

このシリーズは、最先端の心臓外科手術をテーマとしている。
主人公となるのが坂口憲二扮する朝田龍太郎。変わり者だが手術のスペシャリストで、誰にもできないほどのスピードで難易度の高い手術をこなす。
だけではなく、手術しながら新しい術式を考え出すほどの頭脳の持ち主で、しかも心臓を触診しただけで異常部位を見つけ出すほどの手先の感覚の持ち主だ。
まあ、ドラマだから若くしてこれほどの「ゴッドハンド」でも当然なのだろうが。

このシリーズのサブタイトルが「Team Medical Dragon」であるように、チームの大切さを根底に持たせたストーリー展開だ。
「医龍」がバチスタ手術というテーマのもとにチームが編成されるストーリー、「医龍2」は挫折や高慢を乗り越えてチームが再生していくストーリーといえるだろう。
しかし「医龍」は、主人公がブラックジャック並の天才であるが故に、結局「チームとは天才をサポートする存在」になってしまっているような気がした。
「医龍2」では、オリジナルストーリーということもあって、多少そのあたりチームメンバーの自己変革に焦点を当てたストーリーになっているが。

しかしまあ、なんとも演出過剰の続出だ。派手なME(効果音楽)の続出、登場人物の無意味な表情アップ、主人公の意味ありげな言葉や表情。
もう少しおとなしくしてくれたほうが、ストーリーに集中できると思った。

「憑神」をみた

12月 13, 2007 on 8:46 am | In 映画・DVD評(邦画) | No Comments

人気作家浅田次郎原作のコミカル時代劇。
最後には、原作者まで出てくるが…。

憑神

なんとも運の悪い男の話だ。
ダイハードシリーズのジョン・マクレーンより、運が悪い。

先祖が家康の影武者だったというだけが誇りの下級武家の次男坊、彦四郎が主人公。
ある日酔った勢いで怪しげな稲荷社に願いを立てたところ、三つの神が次々にとりつくという羽目に陥る。
この神というのが、貧乏神、疫病神、死神というタチの悪い神様だったから大変、というわけだ。

神たちがいずれも役目とは真反対の外観をしているというのが面白い。
しかも、痛めつけられたり、情にほだされたりして、主人公にふりかかるべき災難を他に向けてしまう。
なんでも神にも上の者がいて、あまり勝手をすると叱られるというのだが。

微妙なバランスだが、もう少しドタバタの方向に振ったほうがよかったかも。

「蟲師」をみた

12月 12, 2007 on 12:00 am | In 映画・DVD評(邦画) | No Comments

大友克洋監督作品である。
独特な空気感が漂っている。微妙なバランスの上に成り立つ世界観、とでもいうべきか。

蟲師 (通常版)

作品に対する予備知識はほとんどなかったので、よく理解ができなかった。
そもそも「蟲」とは何なのか?
Wikipediaの「蟲師」の項目にはこのように書かれている。

「みどりもの」とも呼ばれ、この世のあらゆる生命よりも命の源流に近いもの。「生」と「死」の間、「者」と「物」の間にいるもの。人の中には見える者と見えない者が居るが、稀に全ての人間に見える種類も存在する。

なるほど、よくわからん。いわゆる「霊」だとかの類に近いものだろうか。
それにしても、作中にこういうことについての説明が何もなかったのは、不親切といえるなぁ。

この作品、時代背景がよくわからなかった。ちょんまげは乗せていないが、時代劇に近い和装の人物ばかり出てくる。それにしては「電気」についての会話もあったりする。上記Wikipediaによると、

時代設定については、作者自身特に設定はされていないそうだが、イメージは「鎖国を続けた日本」、もしくは「江戸期と明治期の間にある架空の時代」といった所との事。

ストーリーは、主人公ギンコの失われた記憶探しを縦糸に、横糸として各地での「蟲」退治などがからまる。
しかし、はっきり言って最後は足をすくわれるような感覚だった。立ち去っていくギンコ。あれでいいのか?

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